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正常と異常の挟間で

モンゴリアン・チョップ的人生→正常と異常の挟間で

 結局のところ世の中には
・正常な人
・異常な人
・異常な人に強く悪影響を受けている人
の3種類が存在するようで、正常な人は哀しい思いをすることが多いのだ。根本的な解決にはならないけれど、さしあたっては「異常な人の真意を理解しようとする努力をやめる」ことでずいぶんと楽になるような気はする。

…と、先日江都屋の本店の方のコメント欄に書いた。実のところ言いたいことはこれで終わってしまうのだ。が、それではちょっと寂しいのでもうちょっと書いてみようか。あんまり話はふくらまないけど。
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 何を以て「正常」「異常」を決めるのか。はてはて。大雑把に言うなら、正常とは建設的であり、異常とはその反対で破壊的である、と。大雑把すぎるか。でも大雑把にいかないと話が細かくなりすぎるからな。つまるところ、その思想や行動、判断が幸福へと向かう人は正常で、その反対が異常と、そういうことにしておこう。

 その性質が生まれつきのものであるのかどうか、変わる可能性があるかどうか、それらのことはさておきとりあえず現時点で「異常」である人、というのは確かに存在する。あの、これ、世の中を悲観的に見ているんではなくって、実際にそういう人っているでしょ?って話ね。どこぞの国の大統領や書記長のことなど考えなくても、あなたが身を置く人間関係の中に少なくとも一人はいるんではないか、ということ。「ううん、私の周りの人たちはみんな心のきれいないい人ばかりよ」なんてことをもしあなたが本気で言うのならば、異常者はあなた自身なのかもしれない(ああいや、これは半分冗談。半分本気)。

 で、基本的には正常なんだけど異常な人の悪影響(毒電波)が強すぎて、言動や体調がおかしくなってしまう人ってのもおりまして、おりましてっていうか、そのパターンが多いんではないかと思う。こんなこと書いている俺自身もやっぱりちょっと思い当たるフシがあるしねえ。あなたにもおそらくあると思う。あるいはあなたの同僚のあの人やあの人が時折理性を失ったように見えるのはやっぱり近くにいる影響力の強い異常者のせいなんではないか。

 そういう人の言動に左右されて右往左往して生きるのはとても辛いことだ。そういう変な影響を受けることからはできれば抜け出しましょう。そこでこの記事の冒頭に書いたことに戻るのだ。

 「異常な人の真意を理解しようとする努力をやめる」こと。

 正常な人は正常であるが故に、異常者の心も理解しようとしてしまう。なかば無意識的に「理解できるもの」であると思おうとしてしまう。そういった望みを持つことは大変結構なことだがしかし、現実はどうだ。あなたは、同じ日本語を使いながら思考内容の全く違う人を相手にしているのかもしれないのだ。どれほど言葉を費やそうと、いや、費やせば費やすほどゴミの山が築かれていく場合もあるのだ。

 そう感じたら、その人の真意を理解しようとする一切の努力を放棄しましょう。時間や労力、生命力の無駄だから。

 できることならそういう人との関係を断ち切れれば言うことはない。こういうことを言うと、それは交友関係を狭めることになりはしないかと危惧する人もいるだろうが、それはいらぬ心配なのだ。負のエネルギーを持つ人物を一人遠ざければ、正のエネルギーを持つ人物が二人以上寄ってくることだろう。

 んじゃね

<次回は「で」または「まで」で始まるタイトル>

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by edoya-ex | 2005-10-19 23:25 | シリトリヨタバナシ

心ならずも→モンゴリアン・チョップ的人生

 モンゴリアン・チョップとは、両の手で同時に相手の首筋のあたりに手刀(チョップ)を打ち込む技である。両手同時に打つので、互いの力が相殺されてしまい、見た目ほどは効かなかったりする素敵な技である。

 モンゴルの人々はたとえば夫婦喧嘩なんかでこういうチョップを使ったりするのかねえ。そんなことはないか。そんなことを言い出したらキリがない。アルゼンチンやカナダの人々は配偶者を肩にかついでギリギリと締め上げたりは(たぶん)しないし、オクラホマ州の夫婦がオクラホマ・スタンピートやオクラホマ・ヘイ・ライドで決着をつけた話など聞いたこともない。スープレックスを恐れて他人が後ろに立つことに神経質になるドイツ人というのもあまり聞いたことはない。それもそのはず、こういうプロレス技の名称はただ単に、その技の開祖の出身地がついているだけなのだから。

 で、その「モンゴリアン・チョップ的人生」というのはどーゆーものかというと、なんというかね、あちらを立てればこちら立たず、とか、とにかくそういう具合に空回りしてることがちょいと多いぞ、みたいな人生のこと。なに、こんな言葉は聞いたことがない?あたりまえだ。この記事のために俺が今つくった言葉なのだから。

 でもなんとなく感じはわかってもらえるだろうか。一生懸命がんばって力こめて打ち込んでるんだけど打撃力は相手に伝わらない。疲れるだけ。ね?むしろ片手でチョップしたほうが腰の回転も使えて重心の移動も楽にできて威力が伝わりやすいんだよ。それなのにモンゴリアン・チョップ。いけません。あなたはキラー・カーンではないのだ。勇気をもってモンゴリアン・チョップをやめて片手打ちに切り替えましょう。

 わかりましたか?

<ということで次回は「い」または「せい」がつくタイトル>

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by edoya-ex | 2005-10-10 22:24 | シリトリヨタバナシ

習字や算盤のお稽古→心ならずも

 心ならずも、という言いかたは何となく好きだ。不本意、よりは意味合いが柔らかく、当初の見込みとは違う流れになっていくのをどこか許している、そんな雰囲気であろうか。

 先日、床屋さんで髪を切ってもらっている間の話の流れから、切り終わってお金を払ってからも(他に客はいなかった)15分ぐらい話をしていた。いつぞやの記事に書いたように、俺は床屋さんとはもう少しドライな関係でいたいほうなのだが、このときは非常に興味のある話題であったのでついつい、心ならずも、話に乗ってしまったのだ(細かい内容についてはその床屋さんの個人的事情もあるのでここには書かないが)。

 話の中で床屋さんが言う。イギリスだったかフランスだったかの人々はバカンスのために働くのだ、しかし日本人がそういうことを言うといかにも不真面目であるかのようにとられてしまう、だからものすごいストレスを抱えながら働かざるをえない雰囲気があるのだ、と。うむ、なるほど。話の続きを聞きながらしばらく考えて俺が言う。一般に日本人は仕事にせよ趣味にせよそれを「〜道」とすることに美徳を感じるのではないか、そして休みや遊びのために働くというよりは、働くために休む、そういう視点で生きてしまう。そして小金を貯めて立派な家や自動車などを持ち、働いた成果を他者に見せつけることで優位に立ち、少しでも威張ろうとする、これがエコノミック・アニマルの正体である、みたいな話を(実際に交わした言葉とは大分変えてあります。いくら何でもこんなコムヅカしい話し方はできないよ)したわけだ。その他にも、背骨に良い枕の話や朝食を抜いて健康になる話、石けんの話などいろいろと。けっこう楽しく実のある話だった。

 これが「不本意ながら」ではない「心ならずも」のもたらす意外な収穫なのです。

<次回は「も」あるいは「ずも」で始まるタイトル。…「ずも」で始まる言葉なんてあるのかね?>

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by edoya-ex | 2005-10-06 21:44 | シリトリヨタバナシ