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血の道

1.
 血の道を行かねばならぬか、とヤジマは呟いた。

 血の道、というのは比喩的な意味合いでなく、実際に道が血だらけなのである。

 中央駅にと説明してタクシーに乗り込んだはずなのだが、何をどう間違えたか街外れの屠場に着いてしまった。塀で隔てられてはいるが、ここは天井のない、屋外屠場とでも言えそうな雰囲気である。入ってきた扉は閉じられ、閂もされてしまった。帰りのタクシーをつかまえるにはこの血の道を行かねばならぬか…と、途方にくれるヤジマであった。

 その血の道は濡れているところばかりではなく、ところどころ乾いてはいる。ヤジマの履いている靴は底がゴムではなく革でできている。牛革の靴底(甲の部分も牛革であるが)を牛の血に触れさせるのはたとえ乾いているところであっても気の進まぬことだとヤジマは感じる。信心云々ではない。何となく、である。作業の終わった時間であるようなのは幸いであった。周囲の様子から察するに、作業中ではとても通り抜けるまで心穏やかではいられなかったであろう。

 肉料理は嫌いではないが、その肉ができるプロセスからは目を逸らして生きてきたのだ。歩いて行くだけでそのプロセスがありありと想像できるであろうその光景と匂いにヤジマは、しばらく動けずにいた。

2.
「水にさらすことで臭みやその他のあらゆるものを抜くのです」
「はあ」
「抜ければ抜けるほど良いのですよ。最初はもちろん、血が抜けていきます。それから、私たちが『臭み』と呼んでいるもの、そしてプラスα…いえ、マイナスαと言う方が正しいでしょうかね、とにかくあらゆるものを水に流して、最後に残るお刺身の究極のエッセンス、とでも申しましょうか、希釈に希釈を重ねた食材のもたらす効用たるやそれはもう、計り知れない物がありますのよ」

    ヤジマはこの料理教室に体験入学したことを少し悔い始めていた。

「すると先生、お醤油や薬味は…」
「ヤジマさん」
「はい」
「お醤油や薬味など、もってのほか」
「これは失礼いたしました」

    これもまた「血の道」なのであろうか。行く先々で我が身に降りかかる災難を、ヤジマは近頃、そう心の中で呼び表している。

「お魚の血の道を…」

    やはり「血の道」

「断ち切り、流し、清らかな水にて浄化する、これが私の『お刺身』なのです」

    ヤジマは、この先関わらねばならぬことになるであろう多くの「血の道」のことを、ぼんやりと考え始めた。


 先生の拵えた「お刺身」を二皿、平らげたらしいことを思い出したのは、その夜も更けてからである。

 いったいどんな効用があったのだろうか。
 


<次回は「ち」または「みち」で始まるタイトルですよ>
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by edoya-ex | 2010-08-28 20:11 | シリトリヨタバナシ
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