習字や算盤を習ったことはない。
小学生のころなど同級生のうちの半分ぐらいは、そのいずれか、あるいは両方を習いに行っていたようだが俺は絶対に習いに行かぬと固く心に決めていたのだ。 次の日の国語の授業で初めて習字を教わる、その前の晩のこと。母親が俺に、明日に備えて習字の練習をしろと言う。おかしな話だ。なぜ明日教わるものをその前の晩のうちに知っておく必要があるのだ。それがトラウマとなって云々いう話ではないが、ともあれそれがきっかけで俺は習字が大嫌いになった。 算盤にしても同じことがあった。その晩は「太陽にほえろ」でテキサスが殉職する回の放映があったのだが母親としてはそんなものよりは算盤のほうが大事だと強く強く思っていたのだろう。しかし俺としては、テキサスが死んでしまうというのに算盤なんぞやっている場合ではないという思いが強く(そのころはビデオなんてなかったしね)、窓の外から漏れ聞こえてくるヨソの家のテレビの音いっそう悲しく、泣き叫びながら算盤をやったのだ。だから俺は算盤も大嫌いになった。 今、毛嫌いする気持ちはなくなったけれど、習字や算盤を習っておけばよかったと思っているかというと、まったくそんなことはない。字がきれいに書けていたら入れていたかもしれない会社、というのもあったが、今にして思えばそこへ入っていなくて良かったと思う。それに今はPCが(日本語ワードプロセッサが)あるのだから、(仕事をする上で)文字の巧拙はさほど重要ではない。それに俺は算盤をやっていなかったわりには計算は早いぞ、計算してる時に横から話しかけられさえしなければ(計算してるような顔に見えないんだろうな。中身は目一杯回転してるんだから、傍でごにょごにょ言わんで欲しい)。だからなんとかなるんだよ。 で、先に書いた「明日の授業で教わるものを前の晩のうちに一通りできるようにしておく」こと。これは間違っていると俺は思う。何のための授業だ。その「予習」である程度できるようになってしまうとする。そうすると、肝心の授業をなめてかかるようになるかもしれない。当然のことながら、授業では予習よりも深いところまで扱うのだよ。知ったつもりでいると肝心なところを会得できないことになるのだよ。しかもその予習が親の強制によるもので、ちっともおもしろくなく、その教科に対する反発のみしか生まないものになってしまうと、授業も疎かになるのだ(それは俺のことか)。変な先入観を抱いてしまうような予習ならしないほうがいい。 ところでこれは学生だけに当てはまることではなく、大人にも同じことが言えるのだ。大人になるとなかなか授業を受ける機会はなくなるけれど、たとえば仕事で初めて会う人に備えて色々とその人に関する情報(うわさ話も含む)を集めておおまかな人物像を作り上げてからその人に会ってみるとまったく印象が違っていて戸惑う、なんてことはないだろうか。これも予習の弊害ではないか。 ということでひとつの法則が導き出される。 「新しいものに触れる時はできるだけ頭の中を空っぽにしておくこと」 いかがなものだろうか? <次回は「こ」か「いこ」で始まるタイトル>
by edoya-ex
| 2005-08-30 21:23
| シリトリヨタバナシ
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